昭和50年07月27日 朝の御理解



 御理解 第96節
 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸  が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言う  ても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」

 悪口を言われて腹が立つ様な事では、お道の信心に依っておかげを受けるとか、徳を受けるという事は出来ない。それは人の口には戸は閉てられんと。言うなら枝には葉がついて、話と言うものは広がって行くものである。これは良い事悪い事やっぱりそうなんですけども、悪い事でもそうです。合楽教会の場合なんか、全国的に悪名が高い。どう言う所が悪口を言われる元になっておるかと思うんですけれども、問題はその悪口の元を辿って行くと、人ではない神様だと言う事が分かるです。
 人じゃないです神様が悪口を言わせござる。昨日私はそれを実感したんですけれども、先日から此処で、百何十名の人が集まって、信心研修をやりました。その中に帰られる時に私が母が亡くなった事を、丁度一時の御祈念の終わった後に、それを発表致しましたから、それを聞いて帰られた。そしてその方は長崎県の方へ公民館の館長をしておられますそうですから、会合があって一日か二日泊りで長崎の方へ行かれた。
 それで丁度ある教会の前を通られましたから、矢張り金光様の信心しておる者は、金光様の旗でも立っておれば、一寸寄ってお礼でもしたいのが金光様のご信者です。ですからその教会に寄られた。そして先日は合楽教会で、沢山な者が集まって、長崎県あたりからも来ておりました。此処にもね。もうそれは大変な研修でございました。また本当に合楽教会の素晴らしい事を話された。
 そしたら全然関係も無かろうと思うんですけれども、そこの先生がえらい腹かきなさったと言う訳です。あげな教会が御比礼を頂くなら、もう金光教はしまえると言われた。私は先生、本当に人間の心ちゃ分からんと言うて言われる。丁度会が終わる一番最後の時に、此処の秋永先生が司会をしておりました。信徒会長です司会の時に、私もあん時まぁあんな事言うてと思うたんですけれども。
 まぁきたんないでも事実はそうなんですから。皆さん今日は昨日今日にかけて大変おかげを受けられたが、いわば合楽教会の素晴らしい事は、其々の教会にお帰りになって、褒めなさったら、必ず先生が腹かきなさるから、あんまり褒めんごとしときなさいと言いましたです。私はそれを聞いた時にですね、まぁえらい事言うなと思いましたけどもね。それはやっぱり本当なんですそれが。
 他所の教会に帰って、そらもう初めの間は辛抱しちゃるけども、それが何遍でん何遍でん、合楽教会の事を褒めると、しまいには腹かきなさるです。だから決して合楽教会の素晴らしかなんてん話をしなさいますなと言う事を、この頃研修会の最後の挨拶にしたんです。その人もです今日は合楽の信徒会長が、あげなこつ言いなさったが、あれはどう言う意味でしょうかと言うて、昨日参って来た方が、昨日三人で参って来てありました、他のご信者と。あれはどう言う意味でしょうかと言われたけども。
 私も実際はその意味が分からなかった。それで今度長崎に行って長崎の或る教会に行って、合楽での研修会の模様、または、親教会の素晴らしい事信者が、大変生きを得ておられる事、生き生きとしておられる事、まぁそう言う事を話して頂いたら、急に機嫌が曇うなられてから、言わっしゃった事は、合楽教会のごたるとが、どんどん出来るなら金光教はもう終えるると言わしゃった。
 考え様によるとそうかも知れませんですたいね。あっちこっちに合楽教会のごたるとが出来りゃ、小さな教会は、潰れるごたる事になるかも分かりません。だからそういう意味かも知れません。言うなら大きなデパートならデパートなんかが出来ますと、その近所の小売業者は止めてしまう様な、そういう意味かも分かりません。けれども私はそれを聞かせて頂いて嬉しうなったです。
 言うなら今日の人の口には戸は閉てられんのですから。そういう悪口をいわば長崎の悪口を此処で聞こうなんてね。まぁここの近所の者ならそりゃ分かりません。けれどもその長崎あたりまで、そういう合楽の悪口を言われたと言う時に、腹を立てなどころではない。神様にお礼を申し上げた私は。それがねお徳を受けると思うですね。腹を立てたら皆さん、置きあげ頂かんですお徳は受けんです。
 そげな根も葉もない事を言うてから、どうしてじゃろうかと腹を立てたらね、金光様の信心はおかげ頂かんとですよ。だからせめて腹を立てなという位な、腹を立てんで済むだけじゃなくて、私は心が嬉しうなった。私は神様へお礼を申し上げる様な心持ちが生まれて来た。ある分限者と言われる人逹は、それこそ一代で財をなすと言うのですから、始末倹約人からはケチン坊の何のと言う悪口を言われながら、財産を作るわけです。そこの旦那さんという人は、時々男逹昔は下男の人に、世間の噂を聞かれる。
 俺のとこの事を皆がどんな風に言いよるだろうか。そしてあっちはとてもケチン坊でと言うて、悪口を聞かれると大変喜ばれた。まぁだ家の財産は揺るかない、大丈夫だと言うたというのですよ。確かにそうです。人から悪口ども言われる時には絶対繁盛しよる時です。人から悪口でも言われる時には、まぁだ財産は揺るがない時です。そういう意味じゃなかったじゃろうかと自分で思うです。本当に腹が立つ段じゃない何か嬉しい気がした。神様へお礼申し上げる様な心持がしたんです。
 皆さん私はこの九十六節と言うのは、勿論腹を立てなと言う事と同時に、悪口を人が言うと。長崎の〇〇教会の先生が、研修会が盛大であったと言う事を聞いて、合楽教会が素晴らしいと言う事を聞いて腹を立てられた。しかも悪口もこれ以上悪口はなかろうと思う様に、合楽のごたる教会がどんどん出来るならば、金光教はお終いになると言う様な事を聞いて来て、成程研修会の立ちがけにここの信徒会長が言われた様に。
 決してあなた方が、家に帰ってからおうちの教会で、合楽の素晴らしかった事やらを言いなさっちゃいけませんよ、言いなさったら先生が腹かきなさるですよと、言うた意味が解ったと言うわけなんです。けれども悪口の元と言うのは〇〇教会の教会長じゃない、その向こうには神様が働いてござると言う事です。こちらにおかげを頂かしたいばっかりに、こちらにお徳を下さろうとする、神様の働きと言うても、思うても良いのです。だから腹を立ててはおかげにならんです。
 腹ん立って腹ん立って、腹の中はぐうぐう言うて堪えとる。それでも親先生が辛抱しとけ、辛抱しとけと言われるから、辛抱しとるけれどもと言う位の間は、確かに神様が顔を洗うて下さる。それが事実であれば事実である程、神様は分からして下さる時節が必ず来るです。だからそれが分るとか分らないとかじゃないと言う事です、この御理解は。顔は神様が洗うて下さると言う事ではなくてです。まあ本当に神様が顔を洗うて下さるという事は、どうでしょうかね。
 素晴らしいより有難いおかげをいただく暁が、必ずあると言う事です。人から悪口を言われたら、心でそれこそニャッとする位な心が開けて来る事。いやむしろそれに対してお礼を言わして頂ける様な心。まぁだこれは家は大丈夫ばい、まぁだ合楽教会の事を褒め千切る人もあるかと思うと。昨夜も私十二時頃ここへ出て参りました。そしたら或る教会の先生が見えておられました。丁度土居の共励会から皆さん帰って来たとと、一緒になりましたから、暫くそこでお話をさせて頂いた事でございましたけれども。
 この先生なんかは合楽の事を、いわば全然手続きも違い関係もない教会ですけれども、まぁ必ず、こちらへ見えたら寄ってここでお話共聞いて行こうと言う風にして、なさる先生なんです。言うなら合楽教会の事を褒めちぎって行かれる。その先生に対して文男さんは、こんな事を言ってます。先生合楽の教会のあなた方が時々見えて、良かとこだけ頂いて行こうち言うたっちゃ、おかげには繋がりませんよち。とにかく合楽に一辺倒いうならば、合楽に帰依してしまう。
 そりゃお宅の先代又はお宅のお爺様と言う方は、大変な大徳を受けられた方。けれどもその信心に合楽の信心を只少しばかり、参考にするち言うぐらいな事では、ただ参考になるぐらいなこっで、本当の合楽で今表れておる御比礼には繋がらない。もうそれはスッキリする事を話ておりましたが正しくそうです。これだけは間違いない。こういう信心をすれば徳を受けられると言う、合楽のどこでの話でもそうですけれども。
 先代が残された教えと言うものがです、実際にそれに神習わして貰うて、それを行じた所で必ず分からんところが出て来るです。所がどっこい聞くには、もう御霊様になってござるから分からんのです。所が合楽の場合はです、例えば合楽で私がお徳を受けておる。こういう人が助かる御比礼を受けておるという。言わばその元をです。例えば私が、成り行きなら成り行きを大切にすると言う事を徹底して説く訳ですけれども、自分自身が本気で成り行きを大切にしてみると。
 実際分からない事が、次から次と出てくるんです。出てこなければ嘘です。所が合楽の場合は、まだここに私が居るから、先生が成り行きを大事にしろと言われるから、本気で成り行きを大切にさせて頂いておりますが、こう言う所にブッツかった。こういう分からん事になったと言う事を、ここではまたその分からん所を教えて頂くという所にです。合楽の今の値打ちがあるんだと。
 だから本当に皆さん今合楽で言うておる事を、皆さんが今体得しとかねば、私が御霊様になってからでは、もう駄目だ聞く事が出来ないと言う事です。例えば今日皆さんに言っておる、腹を立てると言う事だけでもです、所が実際は腹が立つです。だからその都度都度にです。その腹の立つその元を絶たせて頂くと言う事がです。今日私は初めて皆さんに聞いて頂いきよるですね。例えば長崎の何々教会の先生が、そういう悪口を言われた、それを私が聞いた時にです。
腹が立たんどころではなくて、返ってお礼が言いたい様な心が生まれた。だから皆さん腹を立ててはならんとか、又は腹を立ててはそれこそ自分の心の鏡が曇ることであると言う事が分っても、実際に皆さんが腹を立てなきゃおられんほどしの問題にぶっつかった時にです。それこそ根も葉もない事を、人が悪口を言うた事が聞こえて来た時に、今日皆さんに聞いて頂いたのは、それは〇〇教会の先生じゃない。
 その元に働いてござるのは、神様だと言うことを聞いて頂いたんです。だからそれが分ったらもう腹かいちゃ馬鹿らしいです。只腹かいちゃ出来んと言うことではね。腹かゝにゃおられない事が起きて来た時に、その処理に困るです。けども今日の御理解を皆さん本当に頂いておって下さると、その向こうにはあの人じゃない神様が言いござるとじゃと。そりゃ何の為言いござるかと言うと愈々合楽教会が磐石だ。
 合楽教会がまぁだ人が悪口言うとる間は狂いはないのだ。まぁだ益々繁盛して行くんだと言う事すらまで、分かって来るのですから、お礼を言わなければおられんのです。今日の御理解なんか、私が居らなければ説けない事なんです。只腹を立てな、神が顔を洗うてやると言うだけは分かろうけれども、何故腹を立ててはならないかと言う事が分からんでしょうが。と言う様なものなんです。
 ですから本当に私が師匠方もないけれども、まあ皆さんの師匠と致しましょうか。皆さんが弟子と致しましょうか。そんならいよいよ師匠のおる間に、ししょうの持っておるものを頂いとかなければ、体得しておかねば体認しておかなければ。親先生が御霊様になってからあの事はどげんでしたでしょうかと言うたっちゃ、いちいち返事をする訳にはいかんと私は思います。
 昨日夕べ遅う見えとられた先生にもです、文男先生が言うておった事も、そういう意味の事。それは先代は大変なお徳を受けられた方であったけれども、その先代が残しておられる教えは沢山あるけれども。その教えの深さ口や言葉で、表現の出来ないものがあるのです。ですから先生が生きてござる時に、先生に本気でぶっつかって、本気でそれを行じて見て、分からん所が出来た所を、又お伺いをして自分の物にしておかねばならないという事でございますね。
   どうぞ。